Typhoon Love

Poetry is nine years old

唖(おうし)の座

豪雪と極寒が暴れまわっていますね。

寒さは色々なものを心身ともに削っていく気がして気が抜けませんね。

 

最近は5時過ぎに起きて出勤前に住居の駐車場を除雪するのが常になりつつあります。眠い。

 

私にはあまり友達と呼べる人は多くないのかもしれませんし、積極的に交流をすることもほとんど無いのですが、いざという時に微力でも力になれたらいいな、くらいの気持ちはまあ当然持っており、それは自分自身でも大して拘りのある感情じゃないと思っていたので、いざそれを閑却せねばならない状況になった時に無視できない心理的ダメージがあるとわかってびっくりしました。

しかし物事には人の数だけ多角的な見え方があり、誰かにとっての愛は誰かにとっての刃であったり親切はお節介だったり奉仕は義務であったりハムスターがドブネズミだったりおまんじゅうが肉まんだったりするわけで、沢山の人と上手にやっていくということは脳内でそれらのどちらも認めながら歩みを進めていくということでありなかなか脳に高いパフォーマンスを求められるよねと思っています。矛盾の折り合いをどこに付けるのが最適なのか?ということです。

 

さらに私も人間ですので私個人の見方に肩入れしがちという落とし穴もあったりし、時にそれは無意識のうちに思考の指針をズラしたりするので注意が必要であり、その上自分の在り方に自信を持ち、ブレない意見を発しながらも相手の真意を汲み取り、物事を円滑に進めていくとなると私にとっては神業で、コミュニケーションというのは本当に難しく苦手だなと痛感します。

そして結局誰も助からなくなった時は、己の不甲斐なさにまたひとつ失望するわけですが、それさえもやはり自分を弱い立場にズラすことで己の加害性から視点を反らせると考えられてもおかしくないのです。堂々巡りですね。

誰もが自分が一番かわいいと思うことをやめられないのが人間の限界だなと強く思います。私もあなたも。頭の良し悪し関係なく。

 

ものすごく頭のいい人とかが、これをこうするのよ、とスマートな生き方を提示してくれたりしますが、世の中全ての人がそれに倣って生きることってできないじゃないですか。できない、っていうのはスマートな生き方に魅力を感じないとか理解できないとかのレベルから、わかってるけど環境や心情がそれを実現不可能にしてるとかのレベルまであるわけで、それらの存在を考慮することをすごく頭のいい人でもできなかったりしてる(分かっているけどそもそも発信の対象としていない可能性もありますけど)のを見ると、人間〜っ!!となってしまいますね。

 

 

バンドへの情熱みたいなものはもう無くなったなと思っていたのですが、いざ話を持ちかけられると自分でも驚くほどに気分が高揚してしまいました。刀は愛でるものでなく人を斬るものです。私が楽器を辞めるときがいつか来ると思うんですが、それまでに何か記録でも記憶でも残すことができたらいいな、と思います。それもまた別の角度から見れば余計なものであり価値のないものなのかもしれません。

 

感情をその場で発露させることは昔よりずっと抑えられるようになってきた気がします(まだまだです)。ここに書いてる時点で完全に滅封できてないわけですけれど、誰かが言っていた、感情をコントロールすることはできないけれど感情をどう表出させるかは自分次第でコントロールできる、という言葉をなるべく忘れないように意識しています。さらに表出方法を昇華として創作などに充てられるようになったら最高ですが、その域に到達することは難しいだろうと感じます。

 

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