Typhoon Love

Poetry is nine years old

臓器の大切さ

あけましておめでとうございます。

年末はバンド関係、年始は地元の友人らとでそれぞれ集まりました。自宅で年を越さなかったのは初めてかもしれません。仙台は人が多いし地元の友人は知らない間に結婚して子どももできていました。子どもは遍くかわいらしく、未来の塊であると感じます。

 

三が日には一本ずつ映画を観て充実しつつ、そろそろ重い腰を上げて……と、アンシミュのプラグインを導入したところです。アナログ人間のつらさ。ここまで映画館の映画待ちの時間で書いています。以下観終わった後(別日)。

 

去年はなるべく映画もライブも観たいものは観よう、というスタンスで臨んだんですが、まんまと出費が嵩んだので今年はそのあたり調整しつつもなるべく我慢しないようにしたいです。演者も客も老いたりいなくなったりするからです。

 

今年の目標なんてものは考えたところで一月の下旬には忘れてしまうものですし、去年に引き続きだいたいは健康と練習に集約されるので特に掲げませんが、アカデミックな部分がいよいよ避けて通れない時代が来た感があるのでまた一週間坊主でもやろうかなって感じです。あとは出したものを元の場所に仕舞う!

音楽は特にKing Gnuや長谷川白紙、それこそbetcover!!もで、音大やクラシック、吹奏楽のバックボーンがあるミュージシャンの活躍の目覚ましさを年々感じていたんですけども、(音楽とは関係ないながらも)年末にM-1で令和ロマンが優勝して松本人志がすっぱ抜かれたりした件が、なんとなく国民全体として貧しくなっているがゆえに間違いないものを求めて学歴とか公的な保証みたいなものがあるほうを選ぶ、みたいな流れの象徴っぽく思えたりしました。発信側になるハードルが下がって人口が増えたので当たり前の着地といえばそうなのかな。前提としてのエクストリームなアプローチにしろ堅牢なアプローチにしろ思いついたものをロスなく表現できるというのももちろんあります。つっても身につかないだろうなという予感もあるのが悲しい。

 

幸か不幸か良くも悪くもヴィジュアル系については世間のそういった流れからは切り離された文化・慣習の肌感覚がありながらも、切り離されているが故のどん詰まり感は無視できない大きさになっているのも事実で、音楽の内容について非感覚的な挑戦をしていくのと並行して、(私自身チェキを売ったりするのにも慣れたり楽しみを見出していますけど)男性の演者と女性の客という構図(そこに音楽鑑賞以外の娯楽要素が多分に含まれる)を健全に運用成立させていくことについてもバックステージの男性的社会であったりとかコンテンツ化されたメンタルヘルスだとかも含めてそろそろ明快に解きほぐされてもいいように思います(シルダクはその点爛れた女性関係は無いのでよかった)。誰か調査して社会学に落とし込んで本にしてくれませんか。

 

そんなことをぼんやり考えつつ、11連休の終わりが見えてきたのでした。もっと休ませてほしい。